都市施設の整備に重点を置いた市区改正事業は、急速な都市化に対応するインフラの整備に追われました。
幹線道路の整備や上水道の改良には一定の成果を上げますが、下水道の整備は、はかばかしく進みませんでした。
またこの都市計画は、あらかじめ市街化すべき地域を区切って、その外部における建築を規制するという発想がありませんでした。
このため人口の急増に伴う市街地の拡大・スプロール化に、都市施設の整備計画が追いつくことができませんでした。
結局一九〇三年に当初の計画を大幅に縮小して、整備事業は一九一九年に一旦終結します。
現実の「都市化」は、整備区域を大きく超えて広がっていったのです。
旧都市計画法と建築規制都市施設の整備に重点を置いた「東京市区改正条例」に代わって、「都市計画法」(旧法、一九一九)が制定されます。
旧都市計画法は、まず六大都市に適用され、国(内務省)の直轄の下に順次指定地域を増やしていきました。
また同時に「市街地建築物法」(旧「建築基準法」)が施行され、「用途地域の種祭は都市計画法で規定され、用途地域ごとに建築できる建築物あるいは建築できない建築物が建築門東京市域拡張直前の東京府(A)と大東京市35区(B)基準法で規定される」という、現在でも引き継がれているゾーニング(用途地域)方式が導入されます。
当時の用途地域は、住居、商業、工業、無指定の四種類で、種類ごとに用途の制限、建蔽率、絶対高さ、道路斜線が定められていました。
このようなゾーニング方式は、①都市計画区域以外の地域での建築が規制されない、②無指定区域では工業用以外の建築物は規制されない、③三種の用途地域内の建築規制でも「街並み」のコントロールができない、という重大な欠点を持ったのです。
二〇世紀に入り急激に進んだ都市化を受けて、一九三二年には周辺五郡八二町村を東京市に編入して二〇区が設置され、三五区の「大東京市」が誕生します。
一九三六年に北多摩郡千歳村と砧村が世田谷区に編入され、市域は現在の二三区の範囲に広がりました。
東京府は一九四三年に東京都となり、一九四七年に旧三五区は再編されて現在の二三区となりました。
この間、東京を中心に壊滅的な打撃をもたらした一九二三年の関東大震災と、第二次世界大戦による戦災がありました。
これらの二度にわたる都市改造の機会に立案された復興計画は、旧都市計画法の下で、特別立法・予算措置によって行なわれましたが、いずれもごく一部に広幅員道路などを残しただけで、全面的な都市改造には至らずに終わっています。
戦前・戦後における都市化の急進旧都市計画法の適用範囲は、全国の市部に順次広げられていきました。
石工市部の人口・面積割合の推移「終戦」「線引き」導入総務省「日本の長期統計系列」より戦前からの日本全国に占める市部の人口・面積割合の推移を見ると、旧都市計画法の制定された翌一九二〇年には、市部の面積割合は〇・四パーセント、人口割合は一八パーセントになっています。
その後一九四〇年までに面積割合は二・三パーセント、人口割合は三七・七パーセントに達します。
この間に市部の面積・人口はそれぞれ、六・四倍、二・七倍になっています。
第二次世界大戦後の一九四七年には、市部の人口割合は三三・一パーセントに低下しますが、一九五〇年には、ほぼ戦前の水準に戻ります。
その後は一九五〇年から六〇年代を通じて、市域の拡大と急激な人口の都市集中が進みます。
一九五〇年の市部`1面積割合は五・三パーセント、市部人口割合は三七・三パーセントでしたが、一九七五年には市部面積割合は二七・二パーセント、市部人口割合は七五・九パーセントに達し、その後は緩やかな上昇に転じました。首都圏では、東京都の人口は一九四五年には三四九万人まで落ち込み、戦前の水準(一九四二年、七三六万人)を超えるのは、一九五三年(七四七万人)になってからです。
全国の人口に占める東京都の割合は、その後も戦前のピーク(一九四〇)と同じ一〇パーセント前後で推移しています。
地方からの人口流入は、神奈川、千葉、埼玉の周辺各県へと広がっていったのです。
戦後復興が一段落して、一九六〇年代の高度経済成長期を迎える頃には、都市地域は東京都から首都圏全域へと大きく膨張していきました。
新都市計画法の制定と「線引き」一九六八年に行なわれた都市計画法の大改正(新都市計画法)では、このような急速な都市地域のスプロール化に歯止めをかけることが最大の課題となりました。
新法では、既成市街地の周辺を「市街化区域」と「市街化調整区域」にわける、いわゆる「線引き」が導入されます。
「市街化区域」は、おおむね一〇年以内に市街化すべき区域として、都市インフラの優先的な整備が進められる一方、「市街化調整区域」での一般的な建築物の建築は厳しく規制されることになりました。
同時に創設された「開発許可制度」によって、一定以上の規模の住宅地の開発における「技術的基準」が定められて、新市街地開発におけるインフラの整備が義務づけられました。
また新しい都市計画法と建築基準法(新法)によって、用途地域は従来の倍の八種類に細分化され、よりきめ細かなゾーニングが目指されました。
新都市計画法では、①土地の都市的利用を市街化区域に限定する、②開発に伴う都市インフラの整備を一括して行なう、③様々な用途の土地利用の混在を避ける、という都市計画の理想が盛り込まれます。
しかしながら基本的に規制が後追いで、用途地域の内容もまだ大雑把であり、「街並み」のコントロールができないという点においては、旧法と同じでした。
「線引き」は首都圏も地方都市も全国一律に行なわれ、また指定のタイングがすでに遅すぎました。
首都圏では、東京都から周辺各県へのスプロールがはじまっていたのと同時に、地方都市の拡大はすでに一段落していたのです。
第一葦日本の街は、なぜ汚いのか人口減少期に入った近年では、地方都市を中心に「線引き」の廃止が議論されています。
「景観論争」小泉純一郎内閣の終わり頃に盛んになった「景観論争」も、このところの不況ですっかり影をひそめてしまいました。
「論争」を提起したのは小泉首相時代に都市再生戦略チームの座長を務めた伊藤滋氏です。
彼は二〇〇四年末に各分野の専門家を集めて「美しい景観を創る会」を立ち上げ、当時特任教授であった早稲田大学の大学院生に課題を与えて「醜い景観」を収集し、同会のホームページに掲載しました。
また「文蛮春秋」二〇〇五年八月号の「『醜い日本の景観』リスト初公開」をはじめ、様々な場面で日本の「景観問題」を提起しました。
そして日本橋にまたがる首都高速道路の撤去問題などを含め、一大論争を巻き起こしたのです。
彼の取り上げた「醜い景観」の多くは、雑然としたもの、ゴテゴテしたもの、場違いなもの、(街並みなどの)ラインを崩すものといったカテゴリーに属するようです。
六つのカテゴリーの筆頭に「過剰な看板広告」を挙げ、「美的感覚の欠如した建造物」「公共の秩序を乱す景観」「行政の無策」と続きます。
毎その多くは、過剰な商業主義とでもいうべきものですが、彼はそれ自体が周りの人々に不快感を与える、「外部不経済」を引き起こしていると主張しています。
そして実際に、そのいくつか(歩道の放置自転車、住宅間際の産業廃棄物、丸坊主の街路樹は、危険性や機能不全の「実害」(外部不経済)を生んでいると批判しています。
この問題提起に対する反論として、整然とした街並みよりも、雑然とした、あるいは「キッチュ」な街並みの方が面白いとか、「サイバー・パンク」な物語風の景色を、美的であるという人も出てきました。
しかしながら、無計画な雑然とした街並みが、都市の機能不全に重なる場合が多いことは見逃せない事実です。
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