カエサル(Caesar)は、古代ローマのパトリキ系の氏族であるユリウス氏族に属する家族名(コグノーメン)。後にローマ帝国君主の称号(君主号)ともなった。
この家族名のみをもって、カエサル家に属した共和政末期に活躍した独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサル個人(前100年 - 前44年)を指すことも多い。ガイウス・ユリウス・カエサルはローマ帝国においてしばしば「神君カエサル」と呼称された。
また「カエサル」の語で、その後を継いだローマ皇帝を指すことも多い。
[編集] 由来
この名前の由来について『ローマ皇帝群像』ではいくつかの説を挙げている。いずれもはじめてカエサルの名を得た人物に関するもので、ベルベル系であるマウリタニア人の言葉で「カエサイ」と呼ばれていたゾウを倒したためそう呼ばれるようになったとするもの。あるいはこの人物は母親の腹を「切り開いて」(caeso)生まれたからとするもの(帝王切開)。生まれたときから「豊かで長い髪」(caesaries)が生えていたためとするもの。そして「灰色の目」(oculi caesii)をしていたためとする計4つの説を紹介している。
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[編集] 変遷
独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは事実上一人支配を確立し以降の帝政の基礎を作った。この基礎を継承し実際に帝政を開始したオクタウィアヌス(アウグストゥス)もまた、カエサル家の養子となっておりガイウス・ユリウス・カエサルに後継者として指名された後は「カエサル」の名はオクタウィアヌスの名でもあった。帝政を確立したアウグストゥスは自分の後継者も養子としてカエサルの名を継がせており、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちは皆、カエサルの家族名を持っていた。このため「カエサル」は皇帝の家族名であると同時に徐々に皇帝そのものを指す一般名詞としても機能するようになっていった。同時代人のイエス・キリストが語った言葉「カエサルのものはカエサルに」はこうした用法の例といえ、「カエサル」の語は具体的には当時のティベリウス帝を指しているものの、もっと広い意味でローマ皇帝=ローマ帝国一般を指しているともとることができる。
こうした皇帝を指す一般名詞としての「カエサル」の用法は、ユリウス・クラウディウス朝が断絶したあとの皇帝たちもカエサルを名乗ったことから確立されていった。また皇帝たちは自らの後継者にカエサルの名を与えたため「カエサル」は次期元首を意味するようにもなっていった。
こうした次期元首としてのカエサルの用法はローマ帝国後期(テトラルキア)には副帝をあらわす称号として使われるようになり、正帝(アウグストゥス)を補佐する者として使われるようになった。ローマ帝国を継承した東ローマ帝国でも当初は副帝を指す言葉(中世以降のギリシャ語では「カイサル」)だったが、時代を下るに従って地位が低下し、11世紀後半のコムネノス王朝の頃には単なる爵位の名称になっていた(皇帝の継承候補者にはデスポテース(専制公)という称号が与えられた)。
このように「カエサル」の名はローマ皇帝を指す語として使われてきたため、ヨーロッパ各国では皇帝を意味する語として「カエサル」に由来する単語が使用されることも多い。代表的なものとして、ドイツ語のカイザー(Kaiser)やロシア語のツァーリ(Tsari)がある。
東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国では、カイセリと言い、主にローマ皇帝を表すものとしてルーム・カイセリという称号が用いられ、スレイマン1世などの一部のスルタンは東ローマの継承者であることを示すためにこの称号を用いている。
ちなみにハプスブルク家は、自らの出自をカエサル家の出であると偽った。
スルターン(アラビア語 : 3D7'F sultn)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」等とも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。
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スルターンの語は、クルアーン(コーラン)の中では「神に由来する権威」を意味する語として使われ、アッバース朝のカリフにおいて初めて君主の称号として採用された。11世紀にアッバース朝カリフの庇護者として勢力を伸ばしたセルジューク朝のトゥグリル・ベグはカリフからスルターンの称号を授与され、ちょうど西ヨーロッパにおける教皇に対する皇帝のように用いられる。セルジューク朝の衰退後はルーム・セルジューク朝やホラズム・シャー朝などのセルジューク朝から自立したイスラム王朝で君主の称号として採用され、スンナ派イスラム世界において一般的な称号として定着する。これ以降、アイユーブ朝、マムルーク朝などの諸王朝は、アッバース朝カリフの承認のもとでスルターンの君主号を称し、自らの権威付けに利用したが、しばしば比較される神聖ローマ帝国の皇帝がローマ教皇に戴冠されたように必ずカリフの任命を要したわけではない。
オスマン朝でスルターン(スルタン)の称号を最初に名乗ったのは2代オルハンで、シャー、ハンの称号と組み合わせて「スルタン・スレイマン・シャー・ハン」などと自称した。のちにオスマン朝が大帝国に発展するとパーディシャーの称号が一般的に用いられるようになるが、君主名の前にスルタンの語を添えて用いたり、「スルタンたちのスルタン」と称したりするようにもなり、また君主の后妃や娘の称号としてもスルタンの語が用いられた。19世紀に「スルタン=カリフ制」の主張が生まれると、オスマン帝国の君主は世俗権力であるスルタン権と宗教権威であるカリフ権を兼ね備えていると考えられるようになる。
現在はオマーン、ブルネイ、およびマレーシア各州の君主がスルターンの称号を使用している。
また、インドネシアは建国以来共和制国家だが、特別な経緯からジョグジャカルタ特別州にのみスルターンが存在しており、スルターン領を認められている。ジョグジャカルタ特別州はかつてはスルターンが世襲で終身知事に就く制度であったが、旧体制崩壊後は選挙で知事が選ばれる制度となり、名目上は世襲知事制度は廃止されているが、現スルターン(ハメンクブウォノ10世)は直接選挙で知事に選ばれている。
[編集] スルターン国
スルターンを号する君主を戴く国家を指して、スルターン国という呼称を用いることがある。王が君主の国家を「王国」、公が君主の国家を「公国」と呼ぶのと同じ理屈である。学術的な分野で支配体制を明示するとき以外、用いられることは稀であり、一般的にスルターン国は王国の範疇に含まれる。
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オスマン帝国(オスマンていこく、オスマン語: /HD* 9'DフG 9+E'FフG Devlet-i Aliye-yi Osmaniyye)は、トルコ系の王家オスマン家を君主とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る広大な領域に及んだ(1299年 - 1922年)。
アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがてビザンツ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、18世紀頃から衰退してその領土は蚕食されて急速に縮小し、挽回を図り対ロシア攻略を主目的に第一次大戦に参戦、しかし敗戦により帝国は事実上解体。20世紀初頭についに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国に取って代わられた。
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目次 [非表示]
1 国名
2 歴史
2.1 建国と拡大の時代
2.2 オスマン帝国の最盛期
2.3 帝国支配の混乱と衰退
2.4 近代化をめざす「瀕死の病人」
2.5 世界大戦から滅亡への道
3 制度
4 文化
5 オスマン帝国を題材にした文学
6 オスマン帝国を題材にしたゲーム
7 脚注
8 関連項目
9 参考文献
10 外部リンク
[編集] 国名
西欧人がオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「オスマントルコ」、「トルコ帝国」、「オスマントルコ帝国」、「オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在はオスマン帝国あるいは単にオスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるペルシア語やアラビア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族・宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。
なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる Osmanl1 0mparatorluu や「オスマン国家」にあたる Osmanl1 Devleti の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
[編集] 歴史
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、スルタン制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。
外為
[編集] 建国と拡大の時代
13世紀末にビザンツ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長、オスマン1世が率いる軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集したムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国 (Osmanl1 Beylii) を築き上げた。